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冬山

 

 

 

昨日も山に行きました。


いわゆる冬山ですか、我々山登りをやっている者にとって四季の中でも別格です。この冬山のすばらしさを
表現することよりもいっぺん行ってみたら、につきます。

でも山の経験のない人や冬山に行かない人(山登りをしていても
冬山に行かないひともけっこういます。)にいわせると 
冬山=危険さらに遭難、とイメージされているようです。

 


私は、さらにテレマークスキーをやっていますが、
これまた単なる冬山登りと違って、雪のない季節に
踏み込めないような場所を自由に(雪崩や危険率の大きい所は、
避けますが)かけめぐれます。


危険といっても、天候や、地形条件によってのルートの選択や
危険を事前に避ける手だては、みんな学習しています。
その労力を惜しませない魅力があるからです。


昨日みたいに好天に恵まれるといつも思います。


同じ人間に生まれて、この冬山のすばらしさを
知らないで一生を終える人が多くいる、残念だねと

表現

こうやってほとんど毎日BLOGを始めてから
自分の反省や物事のとらえ方など書いていると
改めてことわざのすごさに感心する。


例えば、「人の振り見て我が振り直せ」
たったこれだけの文字数で、いろんなときに
適合する。それぞれの人間にいろんな場面に当てはまる。


これは単に昔の人は偉かった。でなく歴史の中で生まれた蓄積である。

 

当然時代に合わせ淘汰され、
また新たな言葉も生まれてくるだろう。


私の私感かもしれないが、優れた文学や芸術は、
それを読んだり見たりして自分がいかに感じられるか
作品に現れない部分をそれぞれ個人が、その人なりに
感じられる。

 

答えは、決して一つではない。

今日変なところで、親を思い出した。


弁当を買いにいつもの店にそこには、
すし弁当と一緒に「あんころ」が並べてあった。


いわゆるこしあんで、餅を包んだお菓子である。
昔子供の頃よく親が、汽車で親戚に行った帰り
よく買ってきてくれた。


甘いお菓子の種類が少ない時代で、好物であった。


その懐かしいお菓子を久しぶりに、買ってみようかと思ったが、
315円という金額に躊躇した。


結局弁当だけ買って出てきたが、その時ふと思った。


親は、いつも買ってきてくれたが、それだけの経済的余裕があったのだろう。
わずか315円の物を買うのに躊躇する自分と比較して、
改めて親のありがたみというか、大きさに気づく。


父親は、去年逝ってしまったが、いまだに母親には、反発していて
素直になれない自分の小ささに気づかされた。

 


あんころ

恥をかく

いままで、ずいぶん多くの恥をかいてきた。


ずっと昔、子供の頃なのに今でも鮮明に思い出し、
そのたびに恥ずかしいと思うことがあった。
小学校5年生くらいかな、クラスに今で言うお釜っぽいやつがいた。


家は、花屋で女の姉弟に囲まれて育ったらしい。


顔は、カバみたいな顔をしていたが、話し方や仕草が女っぽくその容姿とのギャップが、おもしろかったのだろう。


教室では、定期的に席替えがあって、たまたまそのおかま(一応そう言うことに)と席が隣同士になった。


私は、そいつが今まであったこともない人種だったので、おもしろくて急速に
親しくなった。授業中も先生の話は上の空でよくそいつと冗談を飛ばしていた。

 

ある日つい調子に乗って、エスカレートし、彼の口調をまねし
、たしか「あなた一緒に寝ましょうよー」
といって、彼と抱き合っているところを先生が、そっと、そう抜き足差し足と
忍び寄って竹の棒で、どつかれた時みんな一斉に大笑い

 


これは、事とあるごとに思い出してもいつまでも恥ずかしい出来事であった。

はったり

今日仕事で、最終引き渡しタイルを洗っていた。


ふと気になる。タイルには、磁器質、半磁器質、せっき質、陶器質、等がある。違いは、半磁器質より磁器質が硬いことまた半磁器質は、内部に使用。


磁器質は、外部主に床に使用、このくらいしかわかっていない。


これで技術者ぶって、はったり半分で施主にどうどうと説明し、選択のアドバイスを行ってきた。

 


うそぶいて、半分わかっていれば半分はったりで十分通用する。
よく言った物である。これくらいの知識もう少し広げておくべきである。


制作工程、材料特質等、案外全てがそうかも
やがて30年建築現場監督としておそまつである。


ほかにもこんな馬鹿あるだろう。


建築は広範囲な知識がいるので、1つのことを深く掘り下げられないが、
基本的な知識というか、一般的な使用材料や工法について


もう少し勉強しなきゃ


今頃気がついて????

まとも

人は誰もが、「自分はまともである。」と思っている。


もし冷静に、客観的に自分を見つめることができるならば、争いごともないはずだ。

 


ヒットラーも金正日も違った人格になっていたはずだ。
戦争も貧困もなかったと思いませんか?
私は、建築の現場監督です。建築中はもちろん完成に近づいてきたときに自主検査をします。

 

その時よく思い出すのが、今でも尊敬している
以前勤めていた社長の言葉を思い出します。


仕上がった時に点検するときたとえば「柱まず傾いているだろうと
疑ってみていけ」


自分が重要な決断の時あるいは、相手の大きな反発があったとき
自分はまともであろうか?疑えである。

被写体

 


何回か同じ山に登ると
いつも同じ場所で
同じアングルで


同じ被写体を撮っている自分に気がつく

 

 

 


被写体の共通のテーマに水を含むことが多い
これは、人類の祖先生命体が海から生まれたから
帰省本能として水を好む、

 

水を見ると
気分が落ち着く等聞くが
滝、渓流、清流、清楚な湖、海、池、
etc

 


なるほどみんな好きです。

建物探訪

先日入院した時感じたことをかきましたが、その時
同じ病棟に入院いていたひとについて

 


私の病気は、肺に穴が開いて肺の部分切除をするため手術したのですが、入院中よく談話室で、テレビを見ているとき


患者同士でいわゆる病気自慢というか自分の病気がいかに重く
生死をさっまよったか競うように、時に自慢げに話し合っています。


私はそれがいやであまり患者同士の会話に入らないようにしていましたが、


当時私が50歳くらいで、よく話していたというか向こうからよく話しかけてきた青年がいました。話から35歳くらいで、奥さんと9歳と4歳のお子さんがよく見舞いに来ていました。

 

彼は、建築の足場を組み立てるいわゆる鳶工でした。私が建築関係であることを話したので、私を見つけると横に座り話かけてきました。白血病がすすんでいて、3日ごとに輸血が必要だとのこと、


輸血した日は、気分がすっきりするとよく言っていました。


でも私は、ほかの病気自慢の一人だろうとうっとうしく思っていましたが、
ある日突然彼の死をしを知らされました。私が奥さんを見たのは、それから数日たっていました。その時には、奥さんも淡々としていました。


それが私にはよりいっそう人間の命のはかなさを感じさせました。


今でも彼が楽しそうに話していた、渡辺敦の建物探訪を視ると思い出します。

危険回避

昨日長野県乗鞍岳の位ヶ原(標高2400mくらい)
にいってきました。空の青さに改めて感動しました。
冬であることと2000mを超えるとやはり空気が澄んでいて
青空が際だっていました。まさに抜けるような青空といえるものでした。
さて今日は、以前66日間病気で入院していて、
退院したときに感じたことですが、
我々日頃いろんな危険を無意識に回避している。
これを感じたきっかけは、66日間入院してから退院したときに
車を運転して高速道路を走ったときまるで走馬燈のように危険が
おそってくるように感じ、減速し最低速度違反というものが存在することも併せて体感しました。35年以上車を運転し、これほど恐怖感を味わったのは、
免許取り立ての時以来かも、これはいかに公道
に危険が多くまたそれを無意識に回避しているかを感じさせてくれました。
なるほど病院には、高速で走る車もなく、白衣の天使たちが、患者の毎日の健康を点検してくれています。ボタン一つ押すと駆けつけてくれます。
これでは、危険回避能力が鈍って当然です。
冒頭に書いた空の青さ我々が住んでいる場所がいかに汚れているかきずかされました。

写真

断片的な雑文になると思う。


アウトドアーの経験者は、何らかの形で大半の方が、
カメラを手にしたと思う。


感動した風景を撮って、帰ってからデジカメであれば
パソコンで出力したりプリントしたり、またフイルムであれば、
DPEにだして、あがってきたプリントを見て「違う」
私が見た風景はこれじゃない。もっといろがあざやかで、もっと迫力があった。

 

・・・etc、原因はと考えるとまずカメラ、そうやはり1眼レフでないと
さらにフィルム、リバーサルでないと、さらにさらにやっぱりレンズが違う。


と高いレンズをそれらを次から次へと買ってみるが、なかなかうまういかない。ついに私には才能がないとあきらめてしまう。カメラも重くて面倒ととうとう邪魔者
あつかいされ荷物の中から消えてしまう。

 


でどうしたらあのプロが写すような写真が、撮れるのか?
それには、ファインダーをのぞいた時点で、そのフレームの世界に感動する。
その世界をなんとかして感動そのまま撮りたいと強く願う。


そして失敗を繰り返し研究し、勉強していく。


時には、ファインダーからのぞいた花や風景に語りかけていく
そうするとよりいっそう被写体が輝くこの感動をなんとかうまく撮りたい。


強い気持ちが、ファインダーの隅々まで神経を張り巡らせ気を配る。
そう被写体にまず自分が惚れろである。


私も未だに満足な写真は撮れていない。だから写真を撮ることに飽きない。